アドベンチャーによる新しい創造
                                               
    キャンプ宣教研究所 篠田真宏
 
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りにするものが決しあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけれたのです。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、
この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」
(ガラテヤ6:14〜16)


 アドベンチャー リ・クリエイション(以下AR)という体験と発見学習プログラムを教会に紹介させて頂いて
います。このプログラムを行なううちに自分の中に更にハッキリしてきたものがあります。それは「十字架」
であり、「新しい創造」ということです。

 上記の御言葉には、パウロの壮大な「十字架」理解が表されています。オーバーな人だと思うかもしれま
せんが、とても大切な告白です。
「世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけら
れたのです。」
私たちに最も必要なことは「十字架の前に立つこと、十字架につけられていること」です。それ
は神の愛があふれている場であり、神が私たちを守り、「私たちがそこにいていいんだ」という環境が提供さ
れているのです。まさにこの言葉に十字架の普遍性、その意味がハッキリしているのです。

 牧会の基本は、この十字架の前に立たせることであるといわれています。同時に、牧会者も十字架の前に
立ち続ける必要があります。ところが、この十字架の前に立つこともつけられることも難しい現実があります。
信じてから、罪赦されて神と共に歩めば歩むほど、難しく感じるときがあるのです。そこには、自分に死んで
キリストに生きるといいながら、自分のことしか考えられない自分がいるからです。そして、自分を正しい者と
みせようとしたり、自分を誇り、自分を良く見せようとするのです。また、逆に形式にとらわれないことを語りな
がら、神の律法を無視しようとする誘惑もあるのです。絶えず、これらの誘惑に私自身もあうのです。

 私の気持ちを素直に言えば、このARをしていなかったら、十字架の前から逃げ続けていたかもしれません。
しかし、実際には聖霊の導きのなかで「行なわなければならないように」導かれているのです。まさしく「知行
合一」を求められ、模範となり、自分自身に御言葉を適用することが求められているのです。もちろん、失敗も
あります。模範といえない面もあります。だからこそ、十字架につけられる必要があり、弁護してくださるイエス・
キリストを必要とするのです。こう考えると、十字架の前に立つだけでなく、やはりしっかりと「つけられている」
必要を感じます。そうでなければ、十字架の前に立っていた群集の一人として逃げてしまうでしょう。

 さて、十字架につけられてどうなるのでしょうか。それは、自分の中にある様々な隔ての壁を壊すことです。
自分の中にある敵意を廃棄するしかないのです(エペソ2:15参照)。それを実践するための秘訣が、神の平安と
あわれみに生きるための「新しい創造」なのです。そこに期待することができるのです。
 アドベンチャーは、アドベント(待望する)から、ベンチャーとしてリスクを超えて新しく生まれていくのです。新しい
創造に期待して、自分自身の隔ての壁を捨てていくのです。EGO(Edging God Out=神を追い出す)を捨てていく
のです。十字架の愛によってです。それを体験しながら学ぶことができるのが、ARなのです。それは「知行合一」
としての修養方法なのです。

                                                             戻る

Copryright(C)2002  Camp Ministry Network All rights reserved