知と行を結ぶもの

                                 日本同盟基督教団小海キリスト教会牧師 水草修治

 最近(1999年から2000年)、中村有靖牧師の陽明学に関する文章をたいへん興味深く読ませていただきました。中村先生とは東京基督神学校の同期生で、卒業間近に台湾に儒教を勉強するために行くことになったと浮かぬ顔をして話してくれた日のことを今、思い浮かべています。

アブノーマリズムとノーマリズム
 さて、中村先生の文章では陽明学の立場から、「先ず知り、しかる後に行なう」というあり方が批判され、「知ることと行なうことがひとつである」ことの重要性が強調されている。筆者は西洋思想と聖書の文脈のなかから「知(認識)」と「行(実践)」について、少々書いてみたいと思う。
 ソクラテスは「人は真理を知ればこれを行なう。もし人がそれを行なわないとすれば、それはその人が真理を本当には知らないからである。」と言った。これは、アブラハム・カイパーの表現を用いるならば、人間は道徳的にノーマル(正常)な存在であるというノーマリズムの主張である。ノーマリズムは人間主義の根本的前提である。
 教父アウグスティヌスは青年時代、母の信じるキリスト教信仰に反発し、人間の哲学に迷い込んでいた。「告白」によれば、二元論的なマニ教によっては惑わされたが、その後、新プラントン派の書物によって、真理を一瞥するにいたったという。ところが、彼はこの直後、自分自身の驚くべきありさまを認識したのである。

「これまで私は、自分が世をさげすんであなたに仕えないのは、まだ真理を確実に認識していないからだと考え、いつもそれを言い訳にしてきましたが、もうその言い訳はきかなくなりました。なぜなら、真理はもう確実に認識されていまったのですから。しかも私は、まだ地にしばられて、あなたの兵士として仕えることをこばんでいたのです。そして障害に妨げられることをおそれるべきであったのに、かえってそれと同じ程度に、すべての障害からときはなれることを恐れていました。」(conf.8:5:11)

 アウグスティヌスは、<私はほんとうに真理を知っても、これを行なうことができないという悲惨な実態を認識したのである。>つまり、<人は真理を知ればこれを行なえるノーマルな存在である>という人間主義の前提が成り立たないという事実である。キリスト教は、人間は道徳的に異常な状態にあるというアブノーマリズムに立つ。
 ではアブノーマリズムな人間が真理を知り、これを行なうことはいかにして可能だろうか。それは神の恩寵によるほかない。人は聖霊の恵みによってのみ真理を行なうことができる。私たちの知と行を結びつけるのは、ただ聖霊の恵みなのである。私たちが、真理を知り真理にふさわしく行なうことはただ聖霊の恵によってのみ可能となる。

2.知る・賛美する・従う
 では、聖霊の恵みによって知ることが実践に結びつくために、我々は何ができるだろう。もとより聖霊は風のように、御心のままに働かれるのであるから、我々が聖霊をコントロールできるわけではない。聖霊をコントロールできると思うことこそ、聖霊の働きを妨げることになるであろう。けれども、少なくとも私たちは聖霊の風が吹くのを妨げないことはできるであろうし、吹きやすい環境を整えることはできるかもしれぬ。
 私は、ここでJ.I.パッカーの「神について」を一度読んでからずっと心にとどまり続けている神を知ることに関する三段階をここに紹介しておきたいと思う。残念ながらその書物が手元になくて正確に参照できないのであるが、頭に残っているその主旨は次のようなことである。この本をお持ちの方は、最初の部分を開いていただきたい。
 パッカー博士は、聖書のみことばを味読する時にはいつも、<神を知る・神を賛美する・神に従う>という三つの段階を意識すべきだという。
 第一に、その御言葉において神はどのようなお方であると啓示されているかということを知ることである。多くの人は、この次にただちに、真理にしたがって何をするかということを考えて行動しようとするが、パッカー博士は、それにストップをかける。彼は、第二段階の賛美の重要性を力説する。神の真理を賛美することである。神の真理を称えた後に、第三段階としていかに神の真理に従って行動すべきですかという問いを、祈りのうちに神に問いかけ答えをいただき、そして行動するというのである。
 筆者が考えるところでは、この神の真理を称える第二段階こそ、私たちが聖霊のお働きを妨げず恩寵によって生きることに深く関連している。<真理を知り、行なう>というときには、<私の頭で真理を知り、私の力で真理を行なおうとする>ということになる。そのばあい、どこまでも主体は「私」なのである。この「私」が主体であることが聖霊の妨げとなる。なぜならば、この「私」には、常に神を人生の王座から押しのけて自分が王座に座ろうとする罪深い傾向があるからである。しかし、神の真理を知って称えるとき、「私」はわきまえを知って称えるとき、「私」は分をわきまえて王座の足下にへりくだり正しい位置に自らうぃおくことができる。神の真理を知った己が知力を誇ることなく、自らはへりくだって神の真理そのものを誇りうるであろう。へりくだって神に栄光を帰する者のうちに聖霊は働いてくださる。かくて第三段階の神の真理に従って行動するということが可能になる。
 また、第二の神の真理を賛美する段階について、もっとほかの言い方もできよう。第二段階は真理を頭だけで知るのではなく、心もからだも一体化する段階なのである。第一段階で真理はいわば頭の中の理念のような状態なのだが、第二段階において神の真理は心とからだにしみこんでくる。そのいわば石の板に書かれた文字がここの板に書き記される段階ということもできよう。それは聖霊によってなされることである。いわば、外にある客観的真理が聖霊によって内在化されるのが、神の真理を称える第二段階であると言えよう。この神の真理をたたええる第二段階をおろそかにして、ただちに行動に移ろうとするならばどういうことが起こるだろうか。それは、結局、心の板に記されていた新約の信仰生活から石の板に記された旧約的な宗教への逆行である。
 こういうわけで、私たちが主を知ることと、主に従うこととを結ぶのは、聖霊に満たされて主を知ること、主に従うこととを結ぶのは、聖霊に満たされて主を賛美することにあるということになる。

    (2000年6月1日号 CMNのニュースレターNo.9に掲載されたものです。)
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