キリスト教と知行合一

                                     日本長老教会神奈川中会教師 中村有靖

説教の言葉のうちに

 「ことばの宗教である」と言われているキリスト教、私たちクリスチャンは、毎週の礼拝に集い、そこで語られる説教の言葉のうちに自らの信仰が養われ、成長してゆくことを期待している、願っていると言ってよいかと思います。
そのような私たちクリスチャンの姿、勿論一概に比較して言えることではないでしょうが、もし中国明代の儒者王陽明(1472年〜1529年)が生きていてこのような私たちの姿を見たならば、それは朱子(1130年〜1200年)が唱えた「先知後行による修養方法」であると言うかもしれない、と時々思わされます。本文章では以下その王陽明があえて朱子に反旗を翻し、唱えたところの「知行合一による修養方法」、これを紹介し、私たちクリスチャンも、もうひとたびキリスト教会が従来から行ってきた教育方法、これを振り返り、再考することができればと思います。

死ぬまで知らぬまま
 先ず私たちは以下に挙げる王陽明の朱子学批判の言葉、これを見てみようと思います。

  現今の人は知と行とを二つに分け、まずはじめに知るということがなければ、行うことができないなどと考える。
 そして自身も、当面は講習討論によって知をみがき、真に知りえたのちはじめて行ないをみがくことにしようという。
 そしてとどのつまりは、死ぬまで何も行なわず、また死ぬまで何も知らぬままに終わる。
 これは病としてはかなり重症で、昨日や今日かかったものではない。わたしがいま、知行合一を説くのは、まさに
 この病を癒さんがためであって、決してとりとめのない絵空ごとを語っているのではない。(注1)

 ここで陽明が語る朱子学批判、これはすでに述べましたように朱子の唱えた「先知後行による修養方法」、これを批判していると言ってよいかと思います。即ち、朱子の「先知後行による修養方法」とは、陽明によれば「当面は講習討論によって知をみがき、真に知りえたのちにはじめて行ないをみがくことにしようという」修養方法であると言ってよいのではないでしょうか。勿論、それぞれの現場ではさまざまな工夫をして教育をしているかと思いますけれどもしかしなお、基本的にはとりあえず知識を与え、その知識を理解させて、そのあとにその知識にかなった行動を取らせようとする、これが普通になされる教育方法、また修養方法であるかと思います。

 またこのことを特に教会に例をとって考えるならば、私たちクリスチャンは毎主日の説教の中で言わば知識を与えられる。神とは如何なる方なのか。イエス・キリストは如何なることをしてくださったのか。そしてその神が語っておられる聖さ、義しさ、愛、また罪や赦しとはどのようなものなのか、私たちクリスチャンはこのような知識を説教の言葉のうちに教えられ、クリスチャンとして成長してゆくことを期待されている。勿論、礼拝の中で御言葉のうちに知識を受け取る時、そこにどのような心理作用が働いているのか、また更には真理の御霊がどのように働いて下さっているのかは興味深い問題であるかと思います。しかし、形式的にはここにおいても陽明の言う
「まずはじめに知るということがなければ、行なうことができないなどと考える」修養方法がとられていると言ってよいように思います。

 つまり、このように学校や職場そして教会において恐らく基本的に行なわれている「先知後行による修養方法」、私が思うに陽明は特に倫理、道徳に関する知識と行動に焦点を置いていると思いますけれども、この修養方法を
「とどのつまりは、死ぬまで何も行なわず、また死ぬまで何も知らぬままに終わる」このように酷評していること、私たちクリスチャンも知っておきたい、そのように思います。

学の始めはそのまま
 このように陽明は朱子の唱える「先知後行による修養方法」を否定、批判していますけれども、それでは彼はこれに対して如何なる修養方法を唱えているのかここで見ておきましょう。陽明はこのように言っています。

 たとえば、孝を学ぶといえば、必ず骨身を惜しまず孝養を尽くし、みずから孝の道を実践してこそはじめて学んだといえる
 のであり、徒らに口先で抽象論を唱えてみても、決して孝を学んだということはできない。弓を学ぶといえば、必ず弓を張り
 矢をたばさんでひきしぼり的に的中させることをいい、書を学ぶといえば必ず紙を伸ばして筆を執り、紙に墨筆をおろすこと
 をいうのだ、およそ天下の学で、行なわぬのに学んだといえるものは一つもないのだから、学の始めは、すでにその時点で
 そのまま行いでもあるのです。(注2)


 ここで陽明がいくつかの例を出して語っています修養方法が即ち、「知行合一による修養方法」であると言ってよいでしょう。すでに今挙げました陽明の言葉からわかるかと思いますけれども、ここでは知識と行いが二分されていない、またそこに前後関係がないと言ってよいかと思います。例えば、弓を学ぶとはその弓の性質また原理を「弓を張り矢をたばさんでひきしぼり的に的中させること」の中に知識を得、行いが成立していると言ってよいかと思います。また書を学ぶことも、筆の使い方、運び方、これを実際に行なう中で、知識を獲得するのでありまして、決して先に筆に関する知識、筆圧、筆の運びについての知識、これを十分に体得してから初めて実際に書いてみるという方法となっていないこと、お分かりいただけるかと思います。

 またここで、これが恐らく知行合一論の理解の要になっているかと思いますけれども、このような弓を学ぶことや書を学ぶこと、これらと同種の出来事として陽明が孝を学ぶこと、これを論じていることを是非注意していただきたいと思います。つまり、ここで多くの方は、先の2つのことにおいての修養方法は確かに陽明の言うとおり、異論はないと言うかもしれませんが、しかし孝を学ぶといったどちらかと言いましたら学問的なことは弓を学ぶといったスポーツ、また書を学ぶといった技術的こととは違うのではないか、このように思われるのではないかと思います。そのことの是非につきましてはここでろんずることはしませんがしかし、陽明の「知行合一による修養方法」は、私たち人間が獲得しようとするすべての知識と行為、これを同じ論理で説明し解決しようとしていること、これが特徴であることを確認していただけるかと思います。

 即ち、孝を学ぶといった倫理的、道徳的知識の獲得も、弓や書と同じく、「骨身を惜しまず孝養を尽くし、みずから孝の道を実践してこそはじめて学んだといえる」のであり、決して先に孝について書物を読み、孝についての概念、思想を理解してから、孝の道を行なってみるというのではない。また、孝の仕方についてのマニュアル本をまず読んでそれを覚え、暗記して、それから親のところを行き、そのマニュアルに沿って孝を行なってみるというものでもない。つまり、孝を学ぶことにおいて、その孝の知識の獲得と孝の行ないは常に同時に存在し、並行している、よって孝の知識は孝の道の実践によってはじめて獲得できる。これが「知行合一による修養方法」の基本的な考え方であると言ってよいでしょう。

本当にわかるとは
 以上、このように王陽明が渾身思いを込めて唱える「知行合一による修養方法」このような修養方法、また教育方法をつきつけられまして、私たちクリスチャンはどのように考えるべきなのでしょうか。クリスチャンの場合、そして教会での教育ということを考えます時、そこにはなお霊的な要素、また超自然的な要素、これが儒学とは異なり入ってきますので一概には言えない、即ちキリスト教独特の部分については考えずに、あくまでも陽明が唱えて止まなかった知識と行為について、是非私たちクリスチャンももう一度考えてみたい、そのように思います。即ち、私たちが礼拝の中であるいは他の集会において聖書を学ぶということ、ここにおいて教えられるさまざまな知識はどのようなかたちで私たちのものとなっていくのか。そこで語られる説教の言葉を聞いて、私たちは本当にわかることができるのか。そしてそこで本当にわかるというとき、そこにはその知識に関する行ないはなくてもなおわかるということが言えるのかということ。このあたりのことをもう一度考えてみたい、そのように思わされます。

注1: 「世界の名著朱子・王陽明」 溝口雄三訳(中央公論社) p.329
注2: 注1 同書 p.419

    (1999年12月1日号 CMNのニュースレターに掲載されたものです。)
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