キリスト教と知行合一(その2)

                                  日本長老教会 湘南若枝教会牧師 中村有靖

キィーワードは「偽」

 私たちは先の文章(その1)で、中国明代の儒者王陽明が当時の国学でもあった朱子学に反旗を翻し、これの唱える「先知後行による修養方法」これを非難・批判している言葉。また一方彼が唱えてやまなかった「知行合一による修養方法」これが如何なる修養方法(教育論)であったか、これを見ることができたかと思います。本文章では以上の内容をふまえまして、ここでは更にその王陽明が何故にこの「知行合一による修養方法」を唱えたのか、その理由、その所以のほどをともに見ていきたいと思います。

 さてその理由、その所以のほどを見てゆくにあたりまして、私たちはまずその王陽明が唱えた修養工夫論(教育論)の鍵になる概念、そのキィーワードを挙げておきたいと思います。すなわちそのキィーワードとは「偽」(いつわり)という言葉でありまして、私たちはこの「偽」という概念のうちに王陽明がどうして朱子学批判を展開したのか、またこれに対抗して知行合一説を唱えたのか、その理由を知ることができるかと思います。そしてその「偽」という言葉、これは人偏(にんべん)に為(なす)という漢字が作られていますように、これは人間の作為という意味、つまり無為自然の人間の行ないではなく、むしろ人間が殊更作ったところの行為これを意味していること、ご理解いただきたいと思います。ですから「偽」といわれる人間の行ない、行動は、単なる悪・悪い行ない、例えば盗み、殺人、姦淫等、これを問題にしているのではなくて、これはむしろ一見するところ善であり、外観上は善き行為である。しかし本当は見せかけであり「偽」であり偽善である、そのような行為が問題となっていること、まず確認していただきたいと思います。

一日二日学べば
 さてその「偽」ということ。王陽明は私たちが正しく、きよくなろうとする、クリスチャンであるならば言わば聖化されてゆく、その修養工夫・倫理道徳上の訓練をする上で、このようなことを弟子の鄭朝朔に語っていることを見てみましょう。

  朝朔がいう、「たとえば、親に事える場合、どのようにすれば温・清(注1)の節目にかなうか、また孝養のよろしきにかなう  のか、これらについて正しいものが得られてこそ、はじめてそれが至善なのですから、ここのところに学問・思弁の功夫も必  要なのではないのですか。」
  先生いう、「もし温・清が孝養にどうかなうかというだけのことなら、一日二日身を入れて学べばそれで足りる。何も学問の思弁のというほどのこともない。・・・・ただ温・清につとめるその時に、この心がどこまでも天理に純全であり、孝養をつくすその時にこの心がどこまでも天理に純全であること、肝要なのはそれだ。」(注2)

 ここで弟子の朝朔がいっていますことは、先回も見ました朱子学流の「先知後行による修養方法」でありまして、「学問・思弁の功夫」それはまず何によりも「温・清の節目」「孝養のよろしき」これらについて「正しいもの」、つまり正しい知識を得ることであると言っていることおわかりいただけるかと思います。ですから私たちクリスチャンの場合でしたら、「聖化の功夫」これをまず愛、赦し、罪等々について正しい知識を得ることであると言っていることこれと同じであると言ってよいでしょう。
 しかし、この質問に対して王陽明が言っていますことは、第一にそのような知識ならば「一日二日身を入れて学べばそれで足りる」、つまり私たちがこれら「温・清」、「孝養」についての礼、倫理、道徳的知識をまなぶことは大して苦労はいらないと言うのでありまして「何も学問の思弁というほどのことでもない」これが一つ目の答えでした。

 そして二つ目、これが王陽明の何よりの答えであるかと思いますが、その学問・思弁の要点は、むしろ私たちの心がどこまで温・清の天理、孝養の天理に純全であるかということ、これを問題にしていること注目していただきたいと思います。即ち、「この心がどこまでも天理に純全であること。」つまり私たちが如何なる修養工夫をしたら(教育・訓練を受けたら)、私たちのこの「心」は天理に純全となるのか。これこそが学問・思弁の肝要なるところでありまして、恐らくこれこそが陽明思想の根幹であり、最重要問題であったと言ってよいでしょう。

当節の俳優が
 さて、この王陽明最大のテーゼ「この心がどこまでも天理に純全であること」、これが如何にしたら達成できるのか。また如何なる場合これが全く果たされずに終わってしまい、この場合先程のキィーワードとして挙げました「偽」、この陽明が最も嫌った行為に堕してしまうのか、以下見てゆくことにしましょう。
 先ず、先程の朝朔との問答、陽明はその後にこのように言っていることを引用しましょう。

 もし単に、それらの作法が儀法にかなったからといって当節の俳優が温・清や孝養などあれこれの作法を儀法おりに正しく演じてみせるのも、それも至善といってよいことになる。(注3)

 つまりこれが朱子学流「先知後行により修養方法」の結果であり結末であると言ってよいでしょう。即ち、もし私たちが先に知識を得るというかたちで「温・清」、「孝養」を知ったとしましても、それは当節の俳優が「儀法どおりに正しく演じて見せる」、これと同じであると陽明は言っている。つまり、見せかけだけにすぎず、演技にすぎない。また、これはまさに「偽」であり、偽善である。倫理道徳上、また宗教において最も忌むべき行為に堕していく、このように考えていたと言ってよいでしょう。

 また興味深いことに福音書にでてくる偽善者という言葉、これは
役者が演技する意味を本来持っていると言われます。このあたり、思想の洋の東西を問わずと言うべきでしょう。


一つにつらぬけば
 ですからここで私たちが注目すべきことは、二つの大きな違いであると言ってよいでしょう。一つは、私たちが何らかの知識を獲得する。しかしその知識は私たちの心を変えない、言わば心を天理に純全とはしない。しかしその外面の行為はその知識にかなった行為となっている。つまり当節の俳優が「儀法とおり正しく演じて見せる」そのような行為。そしてもう一つは、私たちがその知識により心も天理に純全となっている、その中での行為。つまりこの行為は言わば内と外が一つであり、内面の心の思いと外面の行為が一致している、そのような行為であるといってよいでしょう。王陽明の次の言葉はこのことを言っていると理解してよいかと思います。

 およそ学問の功夫にあっては(内外を)一つにつらぬけば誠であるが、二つに分かれては偽となるのであり・・・。(注4)

 ここで陽明が言っているところの「誠」と「偽」、これが内と外が一つであるか
それとも二つとなってしまっているかの違いであることお分かりいただけるかと思います。ですから、これはひとつ善行に限らず、悪行であってもこのことは言えるのでありまして、例えば、心の内は善、きよらかであるけれども外面の行為は悪であるならば、これは偽悪と呼ばれるでしょうし、一方、心の底から悪く、汚れている、そして現われた行為も悪であるならば、誠なる悪行(誠悪?)となることお分かりいただけるかと思います(注5)。またこれは倫理的行為に限らず所謂、技術上の行為(スポーツ、書道、楽器演奏など)、これについても言えるのではないかと思います。即ちどこか身についていない、また無限に変化する状況についてゆけず、融通がきかない、きわめてぎこちない状態であるならば、書道にしろ、スポーツにしろそれはまだ未熟であり上達していないと言うべきである。そしてそのことの原因は内と外が分かれているためであり、心が天理に純全となっていない、即ちその技術・技能が自分の物となっていないためであると言ってよいでしょう。
 また、私たちがこれらの技術において向上、進歩するということは即ち、この内と外一つになった行為ができるようになることでありまして、その時にこそ、千変万化する状況に応じることができるでしょうし、またその人らしい個性が発揮された書体となり、演奏となり、申し分のないアスリートになると言ってよいかと思います。

これこそが聖門における
 それでは如何にしたら「一つにつらぬくこと」ができるのか、またその意味で「誠」なる行為が実現することができるのでしょうか。私たちはここで次のように語る陽明の言葉を見ることにしましょう。

 ここの外に理を求めるなら、知と行とが二分されたりもする。わが心に理を求めること、これこそが聖門における知行合一の  教えなのです。(注6)

 
即ち彼がここで言っていますことは、私たちが善行にしろ悪行にしろまた何らかの技術の習得にしましても、そのことを自ら体験することなしに知識だけを得るならばその知識は常に「心の外」の理にとどまり続けるのであり、決して私たちの心に本当には入ってゆかない、つまりその知識は一向に私たちの心を変えないと考えているのでした。ですから、そこに現れる事態、あるいは本当はわかっていないけれども行為だけはある状態、即ち「知と行とが二分されたりもする」、このように言っているのでした。つまりこのあたりに王陽明が知行合一を唱えてやまなかった根本の理由であること、すでにおわかりいただけたかと思います。
 最後にこれをまとめるならばこのようになるでしょう。私たちが体験する中で知識を獲得するならばそれは「わが心に理を求めること」でありまして、その知識は私たちの心に必ず影響を与え、変化させ、変えさせてゆくはずです。よって私たちが善きこと、聖きこと、更には熟練・上達を求めるならば、この行為自体を行なってゆく中で得た知識こそは確実に私たちの心を変えてこの心を天理に純全とする。つまりここには知行は一致するのであり、内外を一つにつらぬく「誠」が実現できる。即ち「これこそが聖門における知行合一の教え」であると考えていたのでした。


注1: 温とは冬に親を温(あたた)かにし、清とは夏に清(すず)しくする、子供としての礼を言っている。

注2: 「世界の名著朱子・王陽明」 の中の「伝習録」 溝口雄三訳(中央公論社) p.326
注3: 同書 p.326
注4: 同書 p.469
注5: 王陽明は次のような興味深いことを言っている。「この自分ひとりにしか識知されない、そこにこそ誠は芽生えるのであり、それが善念であるにせよ悪念であるにせよ、そこには全く虚偽がない。」(同書 p.396)
注6: 同書 p.441

    (2000年6月1日号 CMNのニュースレターNo.9に掲載されたものです。)
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